猿島の伝説


 

(1)日蓮伝説

 

 1253年(建長5年)、日蓮上人は鎌倉に布教へ行く途中、安房の国南無谷の丘に登り袈裟を松の枝にかけながら日和見をしていました。今日は天気がよさそうだと、お世話になった泉澤権頭家に挨拶をして海に乗り出しました。

 

 しかし、春の海は潮の流れが速く船はなかなか思うように進まず、そのうち南西の風が次第に強まり、ついには時化になってしまいました。強い風と大きな波に船は翻弄され船底には海水がたまり始めます。よく見ると船底に穴が開いていました。このままでは船が沈んでしまう。上人は船の舳先に立ってお題目を唱えます。

 

 すると不思議なことに船底の穴がふさがれ浸水がおさまっていました。しかし風は相変わらず強く船はいつしか猿島へ漂着しました。やがて、上人の前に白い猿が現れ、陸地の方を指さします。これは猿島から出て陸へ行けということだと思い、船で海を再びわたります。

 

 一方、三浦半島の石渡左衛門尉は前夜東の方から偉い人が来るとのお告げを受け、高台から海を見ていました。そうすると日蓮上人が船でこちらに向かっているのが見えます。船は近づいてきましたが浜は磯で上陸することができません。石渡氏は海に入り上人を背負って上陸しました。

 上陸して上人が石渡氏の足を見ると血が出ていました。「その足の血はどうしましたか」と聞くと「サザエの角で切りました」と石渡氏は答えます。そこで上人が再びお題目を唱えると、このあたりのサザエは角がなくなったということです。

 

 また、左衛門尉がお腹がすいたのではとおにぎりを差し出しますが、寒さで震えていた上人はそれを落としてしまい砂がついてしまいます。しかし、上人が息を吹きかけるとゴマ塩おにぎりに変わりました。それ以来この浜は米が浜と呼ばれるようになりました。加えて、船底の浸水がなぜ止まったのかと見てみると、大きなアワビがついていて日蓮上人を救ったことがわかりました。

 

 このあと上人は石渡氏の世話をうけながら21日間米が浜の洞窟にこもった後、鎌倉へ向け出発していきました。この島が「猿島」と呼ばれる所以で、大きなアワビとサザエが龍本寺につたわっています。

 

 

(2)大蛇伝説

 

 1884年(明治17年)、旧暦5月5日まで猿島には春日神社がありました。毎年この神社では7月下旬に大祭を行っていましたが、この大祭の前後には上総の国鹿野山から大蛇が泳いできて、島の洞窟に住み神社の守護神となっていました。

 

 この年、完成した島の要塞から大砲が試射されたところ、大きな音とともに黒いものが鹿野山のほうへむかって飛んで行きました。これを見た人は房総半島にもいて、「あれはいったいなんだ、なんだったんだ」と騒ぎになったといいます。

 

 以来、春日神社は三浦半島堀の内に移り、大蛇も再び海を渡ってくることはなかったと言います。

 

(3)ほら貝伝説

 

東京湾のヌシと言われるほら貝が霞ヶ浦にある竜宮見物に出かけました。途中、印旛沼まで来るとここのヌシである八千代巻大蛇(やちまたのおろち)がここを通るなと言って邪魔をし、両者激しい争いになりました。

 

 やがてほら貝が勝って大蛇は沼の土とともに東京湾に投げ飛ばされてしまいます。この投げ飛ばされてできた島が猿島になったといいます。 

猿島航路の運航状況

渡船料と時刻表など