①軍港碑
一辺が約30センチの安山岩製の角柱。ふたつに折れておりつなぐと3m余の高さになる。明治10年(1877)年9月1日に海軍が管理する港の範囲(この猿島から夏島の間)が指定された。当初木製の碑だったが、明治16年に石柱に建替えられた。
②発電所(電気燈機関室)
島にあがるとすぐ目につく煙突のあるレンガ造(表面はモルタル塗)の建物。明治26年から28年(1895)に造られた発電施設を入れた建物。当時は石炭を焚いて蒸気で発電機を廻した。建物から飛び出したような小部屋が石炭庫、汽かん室、発電室と2部屋に分かれている。島内のトンネルや探照灯などに使用されるなど大切な施設であった。
③幹道(切通し・トンネル)
猿島砲台は明治14年から始まり17年(1884)に竣工した。砲台へのメイン道路である幹道は全長300m、そこには切通し、トンネルがある。切通しは幅員4.5mほど、両側は石積みされて、その高さは高いところで9.5mから4mほどである。石材は東壁と西壁とでは大きさが違い、両壁ができた時期が異なっているようである。一部素掘りで浦郷層が露出している部分がある。
この切通しに沿って4つの兵舎・弾薬庫が土に掘り込むように造られている。ヴォールト構造(かまぼこ屋根)のレンガ造りの部屋でこの上に第2砲台4門が据えつけられた。 トンネルは幅4m、全長約90m、天井がアーチ状の入口を持地、内面はフランス積みのレンガ構造物で、又トンネル内西壁には地下施設をもち、それが2階構造を持つなど大変複雑な構造を持ったトンネルとなっている。
幹道は直線ではなく、屈折したり、傾斜を持つトンネルが存在したり、見通すことが出来ないなどいろいろと工夫が施されている。
④レンガあれこれ(フランス積み・刻印など)
レンガ構造物に使用されたレンガは刻印から大きく2種類に分類される。中心部分、つまり初めのころの構造物には「三河西尾分工場」で造られたレンガが用いられ、その後造られた構造物には小菅集治監等で造られた桜の刻印のある囚人レンガが使用されている。
三河レンガは当時東海道線のなかった時代、船によって愛知から運ばれたと思われる。レンガ積みは明治初期に用いられたフランス積みという積み方で現在日本では数例しかなく、大変貴重なレンガ積みである。
⑤猿島台場
幕末、外国船の来航に伴い、江戸湾の防備のため房総、三浦半島に台場が造られたがだんだんと湾口近くから奥へと位置が移動して行った。特に猿島・富津近くを通らなければならず、弘化4年(1847)幕府は猿島に台場を建設し、川越藩に防備を任せた。島内三箇所に台場を設けたが、島頂部に大輪戸台場、島北部に亥ノ崎台場、島東部に卯ノ崎台場を設けた。その後の安政大地震や明治期の砲台建設などで台場跡は残っておらず、絵図などで当時の姿を偲ぶことができる。
⑥猿島砲台
明治14年から17年にかけて、観音崎、富津、東京湾海堡などといっしょに帝都東京を守るために2砲台が建設された。第一砲台27センチ加農砲(2門)第二砲台24センチ加農砲(4門)が建設された。 この砲台に付帯して建設された幹道、トンネル、兵舎そして、弾薬庫等が猿島探訪の見どころとなっている。
⑦猿島高角砲台
今までの猿島台場・砲台と艦船を目標とした砲台ではなく、第2次大戦期に防空のために海軍によって設けられる。昭和16年島の北部に8センチ高角砲が4門、昭和20年(1945)に12.7センチ高角砲2基4門が配備される。 この高角砲は横須賀に来襲した米軍機を迎撃するために実戦を経験しました。なお、横須賀空襲は20年7月18日でした。
⑧日蓮洞くつ(猿島洞穴)
島の北端、海抜4mほどに間口7m奥行き30mほどの洞穴がある。戦後すぐに発掘調査が行われ、弥生時代の貝塚や古墳時代の墳墓のあとが発見されている。三浦半島や房総にもこのような洞くつがあり、人の住居としたり墓として使った跡が見つかっている。三浦市の毘沙門洞穴や間口洞穴などが知られている。 のちに日蓮伝説と結びつき、この洞くつは日蓮がこもって修行をしたところとして、日蓮洞くつとも言われている。
⑨猿島遺跡
島頂平坦部一帯をさす。縄文時代早期、中期の土器片・石器等が出土しており人々が大昔から暮らしていたことが伺える。平坂貝塚(平坂上)とは当時、陸続きであり猿島が半島に先端にあったと考えられる。中期の時期は海面が上がり、島となっていたと想定できる。
⑩春日神社あと
江戸時代中ごろから、猿島は公郷村の鎮守となり、神域としての猿島には人が住んだり島のものをみだりに持ち出すと祟りがあるとして、祭礼以外は島に近づこうとしなかった。社殿だが幕末の台場建設に伴う記録に砂浜近くにあり、台場はその裏手を登っていくとあるので、海岸近くにあったものと思われるが場所は特定できない。なお、明治になり、猿島砲台が完成すると拝殿であった今の三春町春日神社に社殿を移した。