◆石垣の弾痕
定説は威嚇射撃
発電所わきの坂を上って行くと石垣に不規則な傷が見えてきます。言われなければ見過ごしてしまう傷です。
昭和20年(1945年)8月15日、日本は太平洋戦争に敗れ終戦となり、8月30日には連合軍の英兵60名前後が接収のため猿島に上陸してきました。
猿島では留守番をしていた日本兵3名が出迎えましたが、丸腰で大勢の武装した敵軍を迎えるのは、ずいぶんと心細かったことでしょう。
でも、この心理は猿島に上陸した英兵にとっても同じ、あるいはそれ以上だったかもしれません。なにしろ神風特攻隊の日本軍でしたから。
石垣の傷跡は、そんな英兵が日本兵の潜伏を恐れて小銃で威嚇射撃した痕、といわれています。
さて真実は?
同じ30日、厚木飛行場にマッカーサー元帥が降り立ちましたが、元帥到着に先立って先遣隊が上陸、25日からは周到に準備作業を進めていました。
一方、日本軍の動きとしては18日に陸軍復員要領が制定され、横須賀の兵団は命令通り25日までに房総の大原町などへの移動、月末までに復員が終了しました。
しかし、GHQウイロビーの回想録によれば、マ元帥が厚木から横浜のニューグランドホテルに向かう道筋は、武器を持たない日本兵3万人が直立不動で元帥の車に背を向けて警備していたそうです。
弾痕を威嚇射撃の跡と断定するにはやや根拠に欠けますが、そんなことがあっても不思議ではなかった、といったところでしょうか。(木)
2021年9月